生活実践を通して「認めてほしい」とう煩悩がとまった稀有なる恩寵

 ここ最近、GLAの劇チームで知り合ったS先輩と、Lineを使って神理について語り合ったり、先人の言葉を深めたりしていました。

 S先輩から、「よくいう進歩しているか、いないのかの基準は、自分の未熟を思えるかと言われますが・・・」

といったことが書かれていました。

「よくいう」という点が分からなかったので、教えて下さいと連絡すると、

「謙遜」について、先人が書かれた文章を送ってくださいました。

Contents

決定的に足りなかった「謙遜」の深まり

かなりのボリュームだったのですが、以下に、特に響いた2つの文章を紹介させていただきます。

あなたが何か良いものを持っているなら、他人はもっと良いものを持っていると信じなさい。
自分を万人の下におこうと、それには何の害もない。だが、自分をたとえ一人の上にでもおくなら、大変な害を受けよう。安らぎは謙遜な者に伴う。

トマス・ア・ケンピス著「キリストに倣いて」

人は自由意志から、自分を同胞の最後の列に置くようにならない限り、救いはない

ガンジー自伝

いかに「謙遜」が大事であるのか、深めていったのですが、普段の自分は、すぐに傲慢になっていたことが客観的に見えてきました。

ちょうど社内で、自分の意見をお伝えするメールを書いている最中だったのですが、振り返るといつの間にか傲慢になっていたなと思い、だから「歪曲→独尊→孤立」の受発色の通りの結果となってしまって、これまでも提案がうまく行かなかったんだと思いました。

そこで、「謙遜」を大事にし、「正直→愚覚」の受信発信でメールを作り直しました。

生活実践の中での「認めてほしい」という葛藤

その日の夜、「生活実践」がありました。

「生活実践」とは、月に2回程度、お住まいや職場の近くで、少人数のアットホームな雰囲気の中で楽しく「魂の学」を学ぶGLA会員向けの研修です。(https://www.gla.or.jp/studysessions/seikatsujissen/

ちょうど、祝日の夜だったこともあり参加者が多く、全部で5名のみなさんと共に、Lineのグループ通話での生活実践をはじめました。

今年は特に、先生から過去のしくじりを意識化し、未来の新しい生き方へと転換するような神理実践シートを降ろしていただいたことがとても大きく、長年蓄積してきた恨みの思いが、浄化されるような転換を、いくつも頂いてきていました。

きっと、その結果頂いた功徳だと思いますが、自分のことが認められず、評価されない状況が、様々に転換してゆき、助力者が現れて道が開かれてゆくようなことが続き、やってきたことが会社でも評価されるようになってきていました。

生活実践に久しぶりに参加した皆さんは、同年代の方が多く、その関わりの中で、比較競争の思いが強く引き出されてきました。

私は、「こんなに光転したので、聞いてほしい、認めてほしい」という思いが、最初からあり、どの場面で伝えようかと身構えていました。

近況の分かち合いの中で、自分が社内に提案したシステムが評価されたことを少しだけ話しました。

しかし、自分の次に話す方は、その部分に対してのコメントはなく、スルーされてしまいました。

すると、「わかってくれない、評価してくれない」という思いがますます強くなってきて、どうやったらわかってもらえるかという葛藤が強くなってゆきました。

葛藤ゆえの連歌発想法での受信の困難

今回はG.誌の11月号の、先生が書かれた「時の羅針盤・200 神理に従う」の内容を深めてゆきました。

一通り読み終わったあとで、しばらく個人で深める時間が持たれました。

その後、「連歌発想法」というミーティングの作法にしたがって、先生のご文章を読んで感じたことをテーマに語り合ってゆきました。

連歌発想法のミーティングでは、自分の前に発言された方の思いをまずは受け止めて、次に自分の感じたことを語るのですが、一生懸命聞こうとしつつも、「自分の事をわかってほしい」という煩悩が出てきて、次に何を発言するかを考えてしまい、なかなか十分に聞くことが できませんでした。

そのため、前の方の発言に対して、少ししか受け止められなかったのですが、その後悔を感じつつ、次に先生のご文章から感じたことを話しました。

先生のご文章から「恩恵の自覚」の弱点の発見

「光転の果報は恩恵として現れる」という章に

「私たちがどれほど努力したとしても、それらの変化、成果、光転の果報はいつでも恩恵としてもたらされるのです。

そのような感覚とそういう思いが交錯する風土を、私たちは育ててゆかなければならないと思うのです。」

と書かれた部分が特に響いたことを、自分の感想として語ったのですが、自分自身は恩恵の自覚がとても弱くて、すぐに自分はやった、できたと思ってしまい、その背後に働いている助力をほとんど感じることができない弱点を持っていること。

そして、お昼に「謙遜」というテーマで、たくさんの先人の言葉に触れる機会があったけれども、自分には「謙遜」という感覚が決定的に足りないため、これまでも失敗を重ねてきた後悔をお伝えしました。

そして、最後に、先生はご文章の中で、「風土を、私たちは育てていかなければならない」と書いてくださっており、自分自身は先生が書いてくださっているような恩恵をなかなか感じられないけれども、これから育てていけばいいんだと思うと、救われる気がしたことをお伝えしました。

すると、思いのほか「謙遜」ということが場に響いたようで、先生のご文章とともに、「謙遜」についても、連歌発想法で深められてゆきました。

生活実践の関わりの中での葛藤の消失

次のミーティングのテーマとして、人生の底辺に流れている旋律を感じた体験について取り組みました。

私自身は、数年前に、刻銘碑の前で先生にご指導を頂いた時に、ユニバース体験を頂いたのですが(下記リンク参照)

2018合同セミナー 苦・衰退を超えて「生まれてきてくれてありがとう」という先生の御心との出会い

何であんなに魂深くからの情動が溢れてきたのか、わからなかったのですが、今年、ある方との響働への道が開かれる中で、あのときの感動は、意味と必然があったんだとつながった体験を分かち合わせていただきました。

自分としては、どこまで話していいかわからず、引き気味に語ったのですが、次の方が、それまでいくら煩悩で「認めてほしい」と思って伝えても、受け止めてもらえなかったのに、魂の願いについて語ったことを、自分以上に深く受け止めてくださったように感じました。

あとから考えると、この出会いの後から、「自分の事をわかってほしい、評価してほしい」という思いが消えていったように思います。

講演会を通して見せていただいた魂願の深まり

そして、最後のミーティングでは、光転の果報が『恩恵』として現れたと思った体験について語りました。

私は、ちょうどこの期間の、ユビキタス講演会に向けての出会いについて語ったのですが、それまで、講演会のことをお伝えしようとすると、恐怖心が湧いてくることが多くありました。

神理実践シートに取り組みながら、何でこんなに恐怖心がでてくるのか見つめていった時に、相手の方に本当に幸せになってほしいという思いよりも、誤解されたらどうしようという、自分を守る思いのほうが強かったことが見えてきました。

でも、今回講演会に誘った方の中に、精神的にかなり厳しい試練を抱えられていることを教えてくださった方がいたのですが、本当にこの方に幸せになってほしい、先生、神様の御光が届き、試練を乗り越えることができますようにと心から祈った時に、先生が近くにいてくださって、一緒に祈ってくださっているよう感じたことがありました。

その時、先生は最も低き所で、多くの人の痛みを背負い、ともに歩んでくださっているんだなと思ったときに、自分はそのことが知りたかったという思いが溢れてきました。

自分が認められることではなく、自我を砕いて、砕いて、最も低きところ、痛み多き所で、先生、神様の御心とともに祈り生きること。

それが自分の魂の願い(魂願)なんだろうなと思いました。講演会を通して、そのような体験を頂いた恩恵について語りました。

頂いた安らかな気持ちと煩悩の相対化

そして気づいてみると、あんなにも自分のことを認めてほしい、評価してほしいとずっと葛藤していたのに、終わった時にはとても安らかな心になっていて、認めてほしいという思いが、消え去っていました。

そして、こんなにも安らかな気持ちになることがあるんだろうかと思うくらい、穏やかな気持ちになれていました。

この気持で、あの葛藤していた思いを振り返ると、認めてほしい、評価してほしいというのは、自分自身の未熟な煩悩だったんだなとはっきりと見えてきました。そして、この煩悩の思いは、不要だった 、、、極端にいうと認めてもらう必要は、はじめからなく、存在の根元において既に愛され認められていたんだと思いました。

しばらくしたら、また、認めてほしい、評価してほしいという思いに、戻ってしまうんだろうなと思いつつ、それでも、一瞬でも煩悩から離れることができ、こっちの気持ちのほうが本物と思えたのは、稀有な体験を頂いたように感じたのですが、生活実践の場に注がれる御光、癒しの力によって救われたんじゃないかと思いました。

2週間後の生活実践での煩悩のチェック

2週間経って、感謝の集いが開催される日の夜に、生活実践が開催されました。

感謝の集いのご講演では、中身空っぽの人間観が世界を席巻していることをお話しくださったのですが、自分の内界にも侵食してきており、それが自己否定や、自信がない感覚につながっていたことが見えてきました。

中身空っぽと思うから、なんとかして自分を証そう、外に認めてもらおうとしてきていたんだと思いますが、ご講演をお受けする中で、内側に光が満たされていった時に、外に証を求める必要がなくなっていくように感じました。

2週間経ったらまた煩悩に飲まれた状態に戻ると予想していたのですが、感謝の集いで、認めてほしいと思う煩悩の根本にある闇を浄化していただいた結果、予想に反して、穏やかな気持を維持することができ、自分を認めてもらうために画策することがほとんどありませんでした。

コロナ禍にあっても、生活実践はほとんど休むことなく、続けられてきたのですが、こうやって同志と神理を深め、関わりの智慧の鍛錬をいただけることは、本当にありがたいなと改めて思いました。

自分ひとりではなかなか深められない月刊誌の内容が、生活実践ではぐっと深まって、多くの発見をいただくことが毎回のようにあり、さらにこの場でしか学べない関わりの智慧の鍛錬を頂いてきたのですが、たくさんの気づき発見をいただける、生活実践の場はずっと大切にしてゆきたいと改めて思いました。

2 thoughts on “生活実践を通して「認めてほしい」とう煩悩がとまった稀有なる恩寵”

  1. 赤ちゃんが母親から乳をもらうためには自分を顕示しなければなりません。依存心はそこで作られるそうです。肉体を持って生きてゆくためにはどうしても依存心は必要です。自分にも人にもある依存心を認め、執着しないようにするしかないです。

    1. 依存心の大本って、根源的な生存への欲求(快苦の双葉って確か先生が書いてくださっていましたけど・・・)にあるんですね。
      自分自身は物心つく頃から、親に折檻を受けており、拒絶されて死を思った記憶があります。
      3つの「ち」を超えて、魂としての願いを生きる自分になっていきたいと思いました。

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