クラクフから、ワルシャワの駅に戻ってきたのが、23時前で、バスの出発の1時間前でした。
クラクフで汗だくになっており、一瞬だけでもホテルに戻ってシャワーを浴びて、身だしなみを整えたいと思っていました。
Contents
ワルシャワ滞在一時間の早替え!
駅に待機していた、若いタクシーの運転手さんに、ホテルの住所と、バスのチケットを見てもらって、一度ホテルに戻って、そのままバスセンターに行きたいと英語で伝えました。
すると、快く承諾してくれて、超特急でホテルに戻ってくれました。
着替える間は外で待ってもらって、再びタクシーに乗ってバスセンターに直行しました。
途中でタクシーの運転手さんに話しかけたら、英語が分からないと言われました・・・。
「言葉伝わっていなかったんだ・・・」冷や汗が出てきました。
ポーランドは速度制限がないので、タクシーは150km/h程の猛スピードでドンドン進んでいたのですが、本当にバスステーションに向かっているのか不安になってきました。
運良く、出発5分前くらいにバスセンターに到着し、バスの到着場所を探して、ぐるぐると走り回り、出発の直前に最後の搭乗者としてベルリン行きのバスに乗ることが出来ました。
吸い込んだ痛みとの葛藤と先生からの御光
ワルシャワを夜中に出て、翌朝ベルリンに到着するバスだったのですが、一日中殆ど休みなく、飲まず食わずで歩き回っていたので、肉体的にはかなり疲労が蓄積していました。(ちなみに欧州から戻ったら、4kgほど体重が落ちていました)
それだけ疲れていて、直ぐにでも休みたいはずなのに、頭がだんだん痛くなってきました。
軽度の熱中症になっていた可能性もあるのですが、同時に、ユダヤ人が大量に虐殺されたアウシュビッツのガス室や、ゲットーなど、痛みの多い場所をずっと歩いてきたため、その場にあった残留想念のようなものを吸い込んできてしまったのかもしれません。
苦しいけれども、休むことも、眠ることも出来ない・・・、翌日は、半日という超短時間でのハードなベルリンの滞在を予定しているのに、このまま休めなかったら途中で倒れてしまうんじゃないか・・・
そのような不安と葛藤しつつ、スマホに保存していた先生のご講演をお聞きすることにしました。
すると、ご講演をお聞きし始めた瞬間に意識が落ちてしまい、起きたときには頭痛もなくなり、体力もすっかり回復して、光に満たされているように感じました。
初日もそうだったのですが、本当に先生に光を送って頂いて、助けられての道のりであるという感謝を改めて刻印し、バスの中でベルリンでの計画を立てることにしました。
たった7時間のベルリン作戦
ドイツでの滞在時間は本当に短く、朝の7時過ぎから活動して、お昼の2時には再び長距離バスに乗って、カウナスへと出発しなければなりませんでした。
それだけ短時間しかいられないのに、何でベルリンに行ったのかというと、一つは本物のベルリンの壁を一度見たいという思いがありました。
ベルリンの壁が壊されたときの映像は鮮明に記憶として残っていますが、今という大きな歴史の転換点にあって、東西冷戦終焉の象徴となる場所に、改めて行ってみたいと考えていました。
もう一つは、今年は自分自身が難民の役をさせて頂いていることもあって、ドイツに来ている現代の難民の様子を見せて頂きたいと考えていました。
難民の収容所を調べてみると、かつてヒトラーが使っていた空港が難民の収容施設として使われていることが分かりました。
また、ベルリンの壁の博物館は、3箇所ほどあったのですが、ネットで評価が高い博物館の近くに空港があったので、この二つに行く計画を立てました。
ベルリンの壁到着
相変わらず、スマホが使えない状況だったので、最初に売店で地図を買い、20分位はじっくりと地図を見ながら、ベルリンの壁へと到る道を検討しました。
地下鉄やレンタル自転車も検討したのですが、結果としてタクシーでベルリンの壁に向かいました。
モダンなベルリンの町を進んでいくと、目の前にベルリンの壁が現れました。
東西ドイツを分断し、共産主義と民主主義を分断していた、歴史的な建造物をじっくりと眺めていきました。
丁度、壁の真ん中に立って、東と西の違いについても、眺めることができました。
こちらが東側でシンプルで、無機質な感じがします
こちらが西側で、車も多く、経済力の違いがあるようです
しばらくすると、ゲートが開いて、屋外に設置されたミュージアムに入ることが出来ました。
ナチスの歴史との遭遇
Topographie des Terrors という場所で、1933~1945年の間に、ベルリンで起きていたナチ政権下の弾圧と、ナチの犯した罪に関する博物館となっていました。
実は、日本に帰ってきて後から分かったのですが、この場所はゲシュタポ(秘密国家警察)とSS(ナチス親衛隊)の本部跡地でした。
「ベルリンの壁のことを調べに来たのに、何でナチスのことがこんなに書かれているんだろう?」と不思議に思っていたのですが、劇にも深い関わりがある場所を、導かれるように尋ねることになりました。
劇の中で、 ゲシュタポのスパイも登場するのですが、その役を担う方と一緒に深めていたこともあり、展示物を見ながら、どのような後悔と願いがあったのかが伝わってくるように感じました。
ベルリンは、政治、産業、教育の中心地だったのですが、経済危機(Black Monday)、政治危機(汚職の発覚)が発生します。
危機的な状況の中で、ヒトラーが登場し、ナチスが力の道を歩み始めます。
政治的な敵対者を排除し、一党独裁政治となっていきます。
そして、ナチスがどのように勢力を拡大し、人種差別や、ユダヤ人の迫害を行ったのか、そして終戦へと到ったのか、経緯が記されていました。
約50枚ほどの、展示があったのですが、一枚の英文を読むだけでも数分かかり、じっくりと読んでいたらそれだけで終わってしまうので、雰囲気を受けとめながら、一枚一枚写真に収めていきました。
こうして、思いがけずナチスの歴史を深めることになったのですが、改めて歴史を振り返ることの重要さを痛感しました。
そこで、難民キャンプに行くのは辞めて、地図で偶々見つけていた、近くにあるユダヤ人博物館に行くことにしました。
ベルリン ユダヤ人博物館
ユダヤ博物館は、ベルリンの壁から、20分ほど歩いた場所にありました。
システムが非常に先進的であり、スマートホンの端末に一つ一つの展示物に対する各国語の説明がされていました。
久しぶりに、日本語の解説を聞くことができたのですが、項目数が百数十あり、全部聞いていたら丸一日は必要なボリュームがありました。
カウナスへの移動を考えると1時間ちょっとしか残されていなかったので、駆け足で回ることになりました。
建物の設計者は、ポーランド出身のユダヤ系アメリカ人のダニエル・リベスキンドで、親はホロコーストの生存者でした。
建物自体が、芸術作品となっており、深いメッセージが込められていました。
真っ暗闇の部屋の中で、遠くに光が差し込んでいるような部屋がありました。ホロコーストタワーと呼ばれるこの建物は、ホロコーストを象徴していました。遙か彼方に希望の光、果たしてそこに辿り着くことが出来るのか、そのような葛藤を表現されているように感じました。
柱のジャングルに囲まれたような場所もあり、空間的に自分の居場所がわからなくなってしまう体験をしました。これは、「亡命の庭」というオブジェで、亡命後のユダヤ人の不安定な心境を現していました。
ユダヤ教の聖典である、トーラーの実物や、ユダヤ人が被っているキッパという帽子も展示されていました。
ハヌカのお祭りに込められた意味
劇中にハヌカのお祭りのシーンがあるのですが、そのお祭りの意味についても説明がありました。
また、ハヌカではクリスマスツリーが飾られるのですが、何でキリスト教のお祭りの象徴である、クリスマスツリーが飾られているのかについての解説がありました。
ハヌカのお祭りと、クリスマスは、時期が重なっており、家族のお祝いという点で、共通点があるということでした。
それで、ユダヤ人にとっては、キリスト教とも融合していきたいという思いがあって、クリスマスツリーを飾るようになったということでした。
ユダヤ教の中でも、賛否両論あるらしいのですが、宗教の違いによる対立だけではなく、融合しようとする歩みもあることを知ることが出来ました。
ドイツのホロコーストを認めるまでの戦い
また、第2次世界大戦後の話しも非常に興味深いものがありました。
私は、戦争が終わってから、直ぐにドイツはユダヤ人の迫害を認めていたと思っていたのですが、戦後数十年は、そのような事実はなかったと否定していたことが分かりました。
以下の英文を読むと、1963年から1965年のフランクフルトで開催されたアウシュビッツ裁判では、ナチスの罪については沈黙を保っていたとあります。マイダネクの強制収容所の裁判の議事録の作成は、1975年から20年もかかったそうです。
また、ユダヤ人陰謀論と共に、ホロコースト否定説も未だに生き続けていることを知ることになりました。
ホロコーストに関する裁判で戦っていた弁護士の思いを聞かせて頂くことができたのですが、あれだけの悲惨な事実を知りながら、その方はドイツ人を責めるのではなく、誠意を尽くし、ドイツ人の良心に働きかけるような形で進められました。
最終的にマスコミも取り上げられて、アウシュビッツで実施されていたことをドイツも認知するようになったそうです。
現在、ドイツは多くの難民を受け入れようとしていますが、その背景にはナチスがホロコーストで行った事への後悔があると思うのですが、こういった、お一人お一人のカオスから光をとりだそうとした歩みがつながってきていることを感じました。
私も仕事において、「自分は正しいことをしようとしているのに、何で?」と理不尽に感じることがあったのですが、私以上に理不尽な状況の中で誠実に生きられた弁護士さんの生き様に触れて、私も相手の仏性を信じて、誠心誠意、心を尽くすような生き方をしたいと思うようになりました。
12/8からこの裁判をテーマとした映画が放映されるようです。タイムリーですね。
ドイツで触れた土地に刻まれた歴史の記憶
駆け足でユダヤ人博物館を回って、タクシーに乗ってバスセンターに戻っていきました。
短い時間ではありましたが、ドイツでもナチスやユダヤ人に関する記録に触れて、より深い歴史の認識へと誘われて行きました。
現在はネットによる情報が氾濫しているので、自宅にいながらも同じような情報を調べることはできたのかもしれません。
しかし、実際に現地を回ってみると、その土地に堆積された歴史の記憶や様々な人々の情動が、意識に流れ込んでくるように感じました。
その上で、改めて歴史を調べて整理していくと、リアルな生きた歴史が自分の中に作られていくように感じました。
高校時代にも相当の時間をかけて、歴史の暗記をしていったことがありますが、もっと、魂、心を使って、生きた歴史を自分の中に作っていくことの重要性を感じました。
特に、今回は劇を通してその時代を引き寄せていきたいと願っての旅だったので、より深く自分の中に、歴史の記憶が浸透していったんだと思います。
御著書「天涙」の「風炎」の章との邂逅
今月号のGLA誌に、先生の御著書「天涙」の「風炎」という物語について紹介された記事がありました。
その中に、先生がかつて函館に行かれたときに、函館大火を体験された「マスさん」という今は亡き魂と、そのご親族と出会われ、その土地に刻まれた痛みに光が注がれていったことが書かれていました。
しばらく、「天涙」は読んでいなかったのですが、これも呼びかけかなと感じ、「風炎」の章を反芻させて頂きました。
これまで、何度か読んではいたのですが、あまり自分に引き寄せることができていませんでした。しかし、今回は深く深く自分の魂に、この物語がしみこんでくることになりました。
函館大火よって、函館の町は8割が消失したらしいのですが、先生は、導かれるように、災害が起きた場所に赴かれ、地獄絵図と言えるような、その当時の情景を一つ一つを受けとめながら、祈りを捧げて行かれていました。
そして、魂の対話を通して、その場の痛みの最大公約数とも言うべき、共通の痛み、その時その場で最も癒やしの待たれている痛みに、惜しみなく大いなる存在からの癒やしの光が注がれたことが書かれていました。
一切の痛みを受けとめる神様の御心への托身へ
同時に、私自身もユダヤ人の悲惨な歴史に触れて、どのように受けとめればいいのか、分からない部分もあったのですが、函館の大火で無くなった方達の物語に触れて、どれほど悲惨な現実であっても、一切の痛みに神様の光は注がれており、それはユダヤ人の魂にも同じよに光が届いていることを感じ、癒されていきました。
この物語の最後に、お釈迦様が説かれた三法印について触れられていました。一部抜粋させて頂きます。
「涅槃寂静—すべての変化と関わりを統括している永遠の生命の次元があるということ。この変わらぬ次元にこそ、自らの存在の根を下ろしなさい。この現象界にのみに安住の地を求めて苦しむ人々に、釈尊は慈しみを込めてそう説かれたのです。」
(高橋佳子先生著『天涙』 39P)
この部分に触れた時に、改めて永遠の生命の次元に根を下ろすことによって、いかなる試練をも受けとめられる境地があることを、教えて頂きました。
「限りない慈愛と圧倒的な生命力に溢れたその永遠なる世界の光を、はかなく切ない闇深きこの世界にもたらすことはできないだろうか—。
忍土の現実に胸を押しつぶされるような思いを味わう度に、そんな切なる悲願はますます強くなるばかりです。」
(高橋佳子先生著『天涙』 40P)
この先生の御心を思ったときに、極みを超えて、神様は人間を愛して下さっていることが伝わってきました。先生を通して、神様とはいかなる御方なのかを教えて頂いたように感じ、世界への信頼が取り戻されていきました。
ドイツのベルリンの地を後にして、いよいよこの旅の当初の目的であった、カウナスへと向かいました。
(続く)