お昼にベルリンを出て、夜中にワルシャワに到着し、そのままリトアニアのカウナスに向かいました。約16時間のバスの長旅を経て、早朝カウナスのバスセンターに到着しました。
言葉も通じず、ガイドもない旅だったのですが、旅の目的地であったカウナスに辿り着けた事への感慨を噛みしめつつ、まずは地図を買って作戦を立てることにしました。
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カウナスでの作戦立案
バスセンターには、劇の舞台と同じ時代である、1940年代の写真展が開催されており、その時代をリアルに引き寄せることになりました。
バスセンターのイスに座って、どこに行くか計画を立てました。
杉原千畝が、電車が発車する直前まで、ビザを書き続けたカウナスの駅には行きたいと考えていました。
またユダヤ人が押し寄せて来た、日本領事館にも行きたいと考えていました。
他にも杉原千畝に関連する場所がないか探していくと、千畝が領事館を追い出された後で、カウナスを出発する直前まで泊まっていたホテルがあることが分かりました。
またカウナスには、ミカエル教会があり、ミカエル教会のすぐそばに、ユダヤ人の教会であるシナゴーグがありました。
ユダヤ人が収容された、第九要塞という施設もあったのですが、残念ながら十キロ程離れていました。
こういった情報から計画を立て、まずは一番近くにあったカウナス駅に向かいました。
カウナス駅事件
町の様子を見ながら、約15分歩いていきました。
そして、カウナスの駅に到着しました。
日本と違って、改札がなかったので、そのまま駅のホームまで入って行きました。
当時に思いを馳せつつ歩いていると、突然、日本行きの飛行機のチェックイン情報がアプリに表示されました。
「えっ、日にち間違えた?」と思って、焦って飛行機のチケットを確認しようとしたら、パスポートが紛失していました。
「あー・・・あの、長距離バスの中で、トイレに行ったときに取られてしまったのかもしれない・・・
これからポーランドの日本領事館に行って、パスポートを取らないといけないのかな、そうなると何日か会社行けなくなるな・・・、言葉も通じないのに、どうしたらいいんだろう」
絶望的な思いと共に、色々な思いが湧いてきました。
それでも、もう少し探し続けていると、カバンの奥の方からパスポートが出てきました。
「よかった・・・」
緊張が一瞬でほどけ、力が抜けました。
命のビザの重みの深まり
ほっとするのと同時に、自然とユダヤ人にとってのビザの重みについて思いを馳せることになりました。
命のバトンを受け取った、ユダヤ人の皆さんは、きっとこの数百倍も葛藤し、ビザをもらったときの喜びは、例えようがないほどの喜びを感じられたんだろうなあ・・・。
ホームの端っこへと移動し、その場で座り込んで、ユダヤ人や千畝の思いを尋ねていきました。すると、時空を超えてユダヤ人達の心の叫びが伝わってくるように感じました。
どうして、自分達ばかりが、ユダヤ人というだけで、こんなに苦しめられなければならないのか、運命を呪うような思い、切ない思いが溢れてきました。
でも、そんな自分達のことを名も知らない日本人が、助けてくれたセンポ(千畝が欧州で呼ばれていた名前)への限りない感謝の思いが溢れてきました。
駅のホームに座り込んだまま、ずっと地獄の底で、神様に救われたような感謝の思いを噛みしめていました。
でもそれは、当時のユダヤ人だけではなく、ずっと地獄の底にいるような苦みを抱え、先生と出会って、救って頂いた自分自身と繋がっていきました。
先生に救われた魂の喜びを表現すること、自分自身の魂の願いと、劇のいのちが繋がっていくことになりました。
日本領事館を探して・・・
ユダヤ人と千畝の出会いの重みを引き寄せつつ、駅を後にして、次に日本領事館へと向かいました。
駅のホームから見ると、山の中腹に十字架のオブジェが見えたのですが、領事館は、その奥にあると地図に書かれていました。
日本領事館に向かう途中に、民家のほとんどの庭には、リンゴの木が植えられていました。
日本に辿り着いたユダヤ人が、敦賀で温かく迎え入れられ、リンゴをプレゼントされた話が残っていますが、カウナスでもリンゴを食べていたんだろうなあと思いました。
また、この辺りはネコが沢山いました。日本のネコと殆ど一緒でした。
地図を見ながら、少しずつ近づいていったのですが、領事館のある場所に来たはずなのに、それらしい建物が見つかりませんでした。
工事中の建物があって、この辺りなんだけど工事中の建物じゃないよなあ・・・と探していると、「入口」という張り紙が見つかりました。
欧州で初めて日本語と遭遇し、「ここだ!」と思って中に入ると、杉原千畝の記念館であることが分かりました。
この工事中の領事館についての情報は、日本に戻って、新聞記事を見せて頂くことになりました。
日本人の塗装屋さん達がボランティアで改装工事をされていた記事だったのですが、現地には日本人はいなかったので、この記事とつながらなかったのですが、つい最近ドキュメンタリー番組がBSで放映されました。
塗魂ペインターズという塗装屋の皆さんが日本から来られる前に、カウナス政府が作業をしていたことが番組で取り上げられていたのですが、70年ぶりに、この領事館を再生させる真っ最中に訪れていました。
記念館で触れた千畝とユダヤ人の心
中にはスタッフの方が数名いらっしゃいました。そして、千畝の物語の映像を見せて頂きました。
「一人の人間のいのちは、地球よりも重い、ならば、6000人以上のユダヤ人を救った千畝は、宇宙を救うのにも等しい。」そのような言葉を、救われたユダヤ人は千畝に伝えたそうです。
日本で制作されたドキュメンタリー番組だったのですが、千畝の思い、そして救われたユダヤ人達の思いが一際深く、心に伝わってきました。
映像を見てからは、館内の展示物をずっと見ていきました。
これは、千畝がビザを発給していた机です。
最初は、私だけだったのですが、少しずつ観光客が増え、キッパという帽子を被ったユダヤ人も見られるようになりました。
この記念館で初めて分かったことも多くありました。
千畝は、ビザを渡す際に「万歳日本」と言うようにユダヤ人に教えたそうです。教えられたユダヤ人はなんのことだかさっぱり分からなかったと思うのですが、きっと、この言葉を言えば、日本人が優しくしてくれると配慮されていたんじゃないかと感じました。
ユダヤ人のことを我がこと以上に深く案じていた、千畝の思いが深く伝わってきました。そして、命を救われたユダヤ人の千畝への感謝の思いも同時に深く伝わってくることになりました。
これは、ユダヤ人がおしかけていた門の写真です。
キュラソービザを発行したヤン
また、キュラソービザについても、かなりの量の展示がされていました。
オランダ領事館のヤンが発行したキュラソービザに次いで、千畝が日本通過のビザを発給することになるので、起点となったヤンの決断の重みを改めて感じました。
ビザをもらえなかったユダヤ人のその後
また、この記念館には、生き残った人たちのその後の人生についても紹介されていました。
あるユダヤ人の男性の母方の親戚は、第九要塞に送られて皆亡くなったそうです。
また第九要塞から、アウシュビッツに送られて、亡くなられた方もいました。
この辺りの情報については、日本に帰ってから更に詳しく調べました。
杉原千畝がリトアニアを去ってから1年後、ドイツは独ソ不可侵条約を破って、ソ連へと侵攻し、リトアニアはドイツ領となります。
そして、リトアニアでも、ドイツはホロコーストを実行します。
多くのユダヤ人は、第九要塞に収容され、拷問を受け、銃殺され、なくなっていました。
事実が分かるにつれて、千畝の決断によって、多くの人のいのちが本当に救われていたことが分かり、ビザの重みを改めて感じることになりました。
記念館での日本から来たSさんとの出会い
この記念館では、一人旅をされていた日本人のSさんとお会いすることになりました。
Sさんはロシア経由でリトアニアまで来られていました。ロシアに行くためには一ヶ月くらい前から準備をする必要があることを教えて頂きました。
それぞれの自己紹介をすることになったのですが、劇のことをお話ししていて、自然と高橋先生やGLAの事をお話しすることになりました。
その流れの中で昨年の講演会のパンフレットをお見せしたのですが「果て無き荒野を越えて」の御著書に関心を示されたので、被災地に先生が赴かれたことをお伝えしました。
そして、「パンフレットもらってもいいですか」と言われたので、これも何かの御縁かなと思ってお渡しさせて頂きました。
ミカエル教会訪問
記念館から一旦駅に戻り、次の作戦を考えていたところ、またSさんとバッタリお会いました。ミカエル教会に行こうとされていたのですが、私も丁度行こうとしていたので、一緒に行くことになりました。
左側の左側が1940年代の写真、右側が今回の旅で撮影した写真です。
教会の中心は、有名なミカエルの絵がありました。
きっと、千畝もこの教会には良く訪れていたんじゃないかなと思いました。
メトロポリタンホテル訪問
教会の次に、杉原千畝が泊まっていたホテルを見に行きました。
ホテルの壁には、杉原千畝の説明がありました。
ホテルで食事ができることが分かったので、そこでSさんと別れて、食事を頂くことにしました。
普通にサラダとスープとチキンを頼んだら、3人分くらい出てきて、食べきれませんでした。
このホテルに滞在していた数日間も、限界ギリギリまで千畝はビザを書き続けていたらしいのですが、しみじみと思いを馳せていきました。
シナゴーグ訪問
カウナスで、もう一箇所行きたかったのが、偶々地図で見つけたシナゴーグでした。
シナゴーグとはユダヤ教の教会ですが、調べる中で情報は入ってきてはいたのですが、実際に一度も見たことがなかったので、見に行きました。
しかし、シナゴーグは、門が閉ざされていて、開館時間も決まっていました。
気軽に入れるような雰囲気でもなく、残念ながら中に入ることは、諦めることにしました。
日本に帰ってきて、色々調べていて、以下のサイトを知ったのですが、この建物は、戦前からあったシナゴーグであったことが分かりました。
バルトの国々を訪ねて( リトアニア編 )④ ~ 宿願の Kaunas ( カウナス ) 訪問
となると、劇に登場する皆さんも通われていたんだと思いますが、図らずもその場へ導かれていくことになりました。
カウナスを訪れて深められたリアリティー
こうして、半日という短い時間ではありましたが、カウナスでも忘れられない貴重な体験を重ねることになりました。
劇の物語の空間は、実際に自分が経験しているわけではないので、現地に訪れる前までは、役を演じるという外からの要請を強く感じていました。
しかし、実際に現地を訪れて、その場の空気や、その当時生きていた人々の思いに時空を超えてアクセスする中で、自分自身の中に生きたリアルな現実が流れ込んでくることになりました。
まるで、欠けていたジグソーパズルが一つ一つ埋まっていくようにつながっていき、劇の背景にあった歴史的事実のリアリティーがどんどん強くなっていきました。
そして、いつしか歴史的事実に対する内なるリアリティーが、劇の世界にはみ出していくように逆転していくことになりました。
(続く)
前回は鑑真和上を尋ねてと中国旅行、今回は杉原千畝を尋ねてのヨーロッパ旅行と目的と神理劇を通して培われた明確な自分と社会への問いかけは素晴らしい道でしたね。
コメントありがとうございます!
右も左も分からず、それでも思い切って飛び込んだ時に、世界の真相への扉が開かれていくことになりました・・・。
本当に誘われての旅を頂きました。合掌。