二千年の祈り霊的読書_イエスの存在の謎に迫る

先生の御著書「二千年の祈り」の霊的読書への取り組みを、このブログが始まった当初から取り組んできました。

一番最初の記事は、「人間イエスとの出会い」という記事で、3年以上前になります。
そして、最終的に辿り着いたテーマが、イエスの人性についての内容になったのですが、不思議な因縁を感じます。

当初、気軽に取り組み始めたのですが、本の内容が深いだけに、じっくりと取り組ませて頂くことになりました。結果として、トータルで20〜30回程読み返すことになりました。

そして、昨年末に、最後の内村鑑三への取り組みが終わり、一通り環に結ぶことができました。

しかし、更にもう一歩、全体を俯瞰して深めることが呼びかけられていると感じていたのですが、年末を迎えてしまいました。

お正月に佐賀に帰省して、市内を移動しているときに、二人の自転車に乗っている青年から声をかけられました。

話を聞くと、キリスト教の宣教師の方達でした。

キリスト教について色々と教えて頂いたのですが、私からも丁度持ち歩いていた「二千年の祈り」を取り出して、高校の読書感想文の課題図書になっていることなども紹介しました。

そして、改めてキリスト教の関係者の方達にも、イエス様の真実の物語が書かれている、この本のことを伝えなければならないと感じました。

そこで、九州から東京までの電車の中で、最初から読み返すことにしました。

何度もこれまでも反芻していたのですが、お一人お一人の物語がまるで初めて読んだかのように新鮮に心深くに受納されていきました。

これまで、イエスの存在について書かれていた部分で、長い間、意味が分からなかった部分がありました。

『出生から復活まで、多くの奇蹟と結びついたイエスの存在は、キリスト教伝承においては、人性を超えたものとして受けとめられています。しかし、本書において、私は「人間イエス」が放った存在の響きということをずっと心に念じていました。信仰の対象とするだけでなく、神の心を切実に生きた一人の人間としてイエスを受けとめるところから、私たちとイエスとの対話が始まると思えるからです。』(4P L7-L11)

『必定、イエスを伝える言葉は、自ずから切迫感を湛えることになりました。その重心は、この世のすべての罪を背負ったとされる十字架上の死に極まります。それは、イエス自身の存在の謎、そして人間と神の絆を象徴する特異点だからでしょう。』(3P L11-L13)

イエスの存在の謎ってなんだろう?

人間と神の絆を象徴する特異点ってなんだろう?

「イエスの存在が人性を超えたもの」ではないのに、「人間と神の絆を象徴する特異点」があるのは論理的に矛盾していないのかな?

核心に通じる、重要なことが書かれていることは何となく感じつつ、答えが見い出せないままでいました。

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イエスの存在の謎に迫るためにも、これまで曖昧にしてきた言葉の一つ一つの意味を確認していきます。

「出生から復活まで、多くの奇蹟と結びついたイエスの存在は、キリスト教の伝承においては、人性を超えたものとして受けとめられています。」(4P L7-L8)

と書かれていますが、キリスト教の伝承ではどのようにイエスの存在が位置づけられているのでしょうか?

まずは、その教理を調べました。

「三位一体」という言葉は知っている人は多いかと思いますが、イエスキリストの存在について定義されている言葉になります。この言葉は大半のキリスト教で公認されている内容です。

三位とは「父、聖霊、子」の三つであり、イエスは子になります。

教理において「父」と「子(イエス)」と「聖霊」は一体(唯一の神)です。つまりイエスは神そのものであるという定義になっています。

また、イエスは神の一人子であり、罪を持っていない存在となっています。

イエスの十字架上の死は、アダムとイブが犯した罪を背負っている人類を救うために、身代わりになって磔になったそうです。

また、イエスの物語は新約聖書に書かれていますが、それ以前にあった旧約聖書の伝説のような物語が背景となっていることも見えてきました。

ここからは私の推測ですが、旧約聖書の時代からの物語とのつじつまを合わせる過程で、イエスの存在が徐々に神格化されていったようです。

何で神格化していったのかというと、無意識または故意的に、イエスを絶対的な存在である神とすることで、時の権力者にとっても、信者にとっても都合が良かったのかな?と思います。

キリスト教が世界的な宗教になっていくプロセスにおいて、神という絶対的な権威が必要とされたんじゃないでしょうか。

しかし、神格化されて人性から離れた存在になるに従って、人間イエスの魂との出会いという信仰において最も大切な部分は、残念ながら欠落せざるをえなかったようです。

ここまでイエスが人性から離れていった経緯ついて見てきましたが、人間と神の絆を象徴する特異点と表現されたイエスの十字架上の死の謎に迫っていきたいと思います。

「二千年の祈り」の本の副題として「イエスの心を生きた八人」と書かれています。

八人の弟子のお一人お一人の歩みは特別な輝きを放っています。奇跡的なことだと思いますが、神としてのイエスではなく、人間イエスの魂にどこまでも接近していかれました。

特に、多くの先人が、イエスが亡くなられるシーンの反芻を深めることを通してイエスの存在の核心に迫って行かれていました。その部分に特化して振り返ってみます。

ペトロは、「二千年の祈り」の最初に出てくる、キリスト教の初代教皇となった方です。

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「二千年の祈り」の中には、十字架に磔になるイエスの心情と、イエスを裏切った弟子の代表としてのペトロの心情がつぶさに書かれています。

本の中に次のような一節があります。

『十字架上の死に向かって、イエスの姿はますます透き通ってゆきました。自由を奪われ、惨めで痩せこけていったのに、その顔は輝き、ますます確かで力強くなってゆきました。四散し、人影や物陰に身を寄せて事態を見つめていた弟子達の中で、激しい慚愧とイエスへの想いが一つの大きな渦となっていったに違いありません。』(30P L3-L6)

十字架上の死は、イエスにとっても非常に厳しい試練と向き合うことになります。民衆の支持を失い、愛する弟子達からも裏切られていきます。

ユダの導きによってイエスは捕縛されてしまいますが、ユダだけではなく他の弟子達も逃げてしまいます。

そして、国家転覆を企てる罪人として十字架で処刑されることになるのですが、イエスはそれでも神への信頼を揺るがせることはなく、裏切った弟子達に対しても変わらぬ愛情を注ぎ続けました。

その計り知れない愛情に触れて、弟子達はイエスがいかなる御方であるのかに目覚めていきます。

十字架上の死は、何よりもイエスの神への信仰と人々への愛情の象徴になったんだと思います。

ペトロは、師と同じ十字架にかかることはできないといって、逆さ十字架に磔になったと伝承では伝えられています。イエスを三度知らないと言って裏切った弱き弟子の代表であるペトロが、十字架の試練を通してイエスの深い御心と出会い、イエスの使徒として蘇り信仰を証して行かれました。

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アシジの聖フランシスコにとっては、「人間と神の絆を象徴する特異点」としてのイエスの受難はどのように見えていたのでしょうか?

フランシスコが弟子レオーネに語った「完全な歓び」の物語の中に次のような一節があります。

『また、わたしたちが飢えと寒さと夜にせかれて、また戸をたたいて、お願いだから、せめて屋根の下に入れてほしいと、涙ながらに頼んでも、門番はいっそう腹を立てて、『この恥しらずのごろつきめ、分相応の仕打ちを受けろ』とわめいて、棒を持ってとび出し、わたしたちを頭巾をつかんで地面に引き倒し、雪の中を転がし、棒で所かまわずなぐりつける時、わたしたちはそれでも忍耐強く朗らかにすべてに耐え、誉れ高いキリストの受難を思い、キリストへの愛のために苦しむことが、どんなにわたしたちにふさわしいかを、よく考える時ーおお、兄弟レオーネよ、いいかね、そこにこそ完全な歓びがあるのです』(65P L9-L15)

そうして、フランシスコの祈りの極みにおいて奇蹟が起こります。聖痕(スティグマータ)という稀有なるみしるしとして、十字架にかかったイエスが受けた傷と同じ傷が、フランシスコの手足と脇腹に現れました。

そのときの体験について、「二千年の祈り」には、次のように書かれています。

『フランシスコはその折、キリストの受難の祈りを祈っていました。そして、イエスが受難のときに耐え忍んだ苦痛を自分にも与えていただきたい、その苦痛を魂と身体で味わい尽くすことができるようにと祈りました。また、そのように喜んで受難を受け忍んだ原動力となった計り知れない「愛」を、自分にも感じとることができますようにとも祈ったのです』(67P L11-L14)

イエスの魂への極みを超えた深い祈り、それはフランシスコにとって、人間イエスの苦しみにどこまでも迫っていくものでした。それは同時に、イエスの御心に湛えられていた神へ信と、人々への「愛」への限りない接近だったのではないでしょうか。

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次に、ジャンヌダルクは、どのようにイエスの魂に迫っていったのでしょうか?

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イエスの弟子としてのどのように歩まれていたのかを見ていくと、冒頭の衝撃的な火刑のシーンに込められた言葉の深い意味が紐解かれていきました。

①裏切った人達への想い
イエス:自分を裏切った弟子達のことを決して責めず、許し、変わらぬ愛情を注ぎ続けた。
ジャンヌダルク:群衆に向かって「私があなた方に対して犯した罪を許して下さい。私もまたあなた方の罪を許します」と伝えた。

②死罪の理由
イエス:神と一人一人のとの再結を訴えながら、宗教的な異端者ですらなく、反ローマの犯罪者として死刑を宣告された。
ジャンヌダルク:最も信仰に忠実に生きようとしていたのに、自らの信仰を否定される形で、異端者として火刑による死罪を言い渡された。

こうして見ると、ジャンヌの火刑の場面は、イエスの受難を自らに引き寄せていたようにさえ見えます。

実際にジャンヌダルクは、火刑の前に十字架を胸に差し入れ、「目の前に教会の十字架を差し出していて下さい」とお願いし、「イエスさま・・・」と叫びながら火柱に包まれていきます。

その凄まじい生き様に、深く胸を打たれますが、ジャンヌの心情までは表現されていませんでした。

そのジャンヌの心情は、24年という短い生涯を通して人間の魂の霊的な道行きを示したテレーズ・マルタンによって、表現されます。

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テレーズは自ら脚本を書き下ろし、主演もした劇の中で、炎に包まれていくジャンヌの最後の叫びを次のように表現しています。

『「主よ、あなたの愛のために、私は殉教を引き受けます。死の火も恐れません。イエスよ、あたなのみを喘ぎ求めます。私が熱望するのは、あなたを仰ぎ見ること。あなたの愛のゆえに死ぬ、それ以外には何も求めません。死にたい! 生き始めるために! 死にたい! イエス、あなたと一つになるために!」
 愛に死に、自我に死んで、神と一つになって新たに生き始める–。ジャンヌに托された、烈しく、また厳しい言葉です。しかし、それが、テレーズの心からの願いとなったのです。』(182P L1-L4)

イエスの受難を思う、あまりにも深い共感、イエスが自らの死に直面して神との絆と人々への限りない愛を現されたように、それに続く弟子達もイエスの受難を自らに引き寄せ、神への信仰と人々への愛を自らに呼び醒まして行かれていました。

八人の物語を改めて辿っていくことを通して、二千年の祈りの中でずっと謎だった「イエス自身の存在の謎、そして人間と神の絆を象徴する特異点」という部分にようやく光が射してきました。

こうして、イエスの存在の謎に迫るに従って、自分の中で明らかになっていったことがありました。

イエスの贖罪の力について、キリスト教の教理においてイエスは神そのものだからそのような力を抱いていたという解釈がされていました。

論理的に理解しようとすると、そのような解釈になるのかもしれません。

しかし、いくら理論的に説明されても、心に深く落ちません。イエスの贖罪の力とは一体何なのでしょうか?

頭では理解できないのですが、直感的にこれと同じような出会いを頂いたことがありました。それが、私にとっての高橋佳子先生との出会いです。

私が初めて先生と出会ったときに次のような思いが引き出されました。

高橋佳子先生が肉体や、精神、そして霊的に深い痛みを抱えた方々を癒される姿を見せて頂いた時に溢れてきたのは、「世界中の人々が自分のことを否定したとしても、この方だけは自分のことを信じてくださる」という思いでした。

まだ、一度もお会いしたことがなかったのに、先生の御存在そのものから伝わってくる愛によって癒され、裁きの神ではなく、真の神様の御存在を知り、神様に愛され、生かされていたことを知ることになりました。

2000年前、罪を背負い、痛みを抱えた人々は、イエスと出会いました。そして、イエスの愛に触れた時に、神に愛され存在を既に許されていたことに気づいていかれました。

贖罪の力とは、極みを超えて一切を愛し導かれている、神様の深い御心と出会うことなんだと思います。
その神様の御心を伝える稀有なる御存在が、イエス様であり、高橋佳子先生なんだと思います。

私は高橋先生との出会いを通して、先生と共にあるイエスの魂とも出会い、イエスの贖罪の力にも触れていたんだと思います。

そして、イエスの時代には、イエスを導かれていた高橋佳子先生の魂とも出会っていたんだと思います。

「二千年の祈り」の御著書に出てこられたお一人お一人がイエスと出会い、その使命を果たして行かれたように、私も高橋佳子先生との出会いを頂いた者として、使命を果たしていきたい。

そして、出会いを頂くお一人お一人が、先生との魂の約束を思い出し、使命を果たしていかれる御縁になっていきたいと改めて願いを確かにしました。

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