お盆の最終日、モザイクプロジェクトのワークショップへの参加を断念し、土日にかけて東北に向かうことになりました。
どうして東北に行くことになったのか?
まずその背景となる、昨年の歩みを振り返らせて頂きます。
3.11の震災発生時、私は埼玉の職場に居ました。
これまでの人生で体験したことがないほどの強い揺れが、段階的に襲ってきたのですが、避難訓練の通り整然と外に向かいました。
まだ、かなり寒い季節でしたが、強い揺れによって、外から見て建物が横揺れするのを初めて見ました。そして、しばらくは建物にも戻ることができずに外にいました。
その後、震源地が東北だという噂が伝わってきました。埼玉でもこんなにひどく揺れたのに、東北ではどれほど強烈な地震が起きたのか、かなり厳しい状況になっていることが予測されました。
そのことを思ったときに、先生がどれほど心を痛められているだろうかと思いました。
というのも、阪神大震災が起きた時に、先生はすぐに東京と名古屋に災害対策プロジェクトを発足されて支援体制を整え、余震が続く中、被災地の瓦礫の中に入って行かれました。
そして、神に祈り続け、現地に光の柱を立てて、生きていく方も、亡くなられた魂も癒して行かれた歩みをを見せていただいていたからです。
新潟の中越地震や様々な災害の時も、本当に心から心配されて一軒一軒にお手紙を届けられ、様々に手を打たれていました。
被災地の大変な状況を思うのと同時に、祈りを捧げられている先生の御心を思い、私も自然と祈っていました。
その後、帰宅難民にはなったものの、運良く職場の方の車に乗せてもらって浅草に帰ることができました。
そして、翌日、緊急招集がかかり、高橋先生が対策会議を持たれることになり、私も参加させていただきました。
先生は、私を呼ぶ声、悲痛の叫びが届いていると告げられ、まずは渾身の祈りを捧げられました。それは、本当に深い、深い祈りでした。
そして、対策プロジェクトを発足され、全国に向けて支援を要請され、様々に具体的なプロジェクトを起動して行かれました。
全国のGLAで一斉に支援体制が組まれていき、何十トンもの支援物資がトラックで届けられる体制が迅速に整えられていきました。
震災後の混乱の中、ほとんどのボランティアがまだ検問を通過できなかった中で、GLAのトラックは、警察署との信頼関係ができていたので、いち早く通行証を入手して、一番乗りで被災地に支援物資を届けることができました。
私にも、支援物資の運搬プロジェクトの、声がかかりました。
強い余震も続く中、震災後の混乱した現地に入っていくことを考えると、恐怖心が出てきました。
しかし、これはもう引き受けるしかないと心を定めました。
ただこのときは、仕事との調整が付かず、物資の運搬はできずに終わってしまいました。
先生はその後、青年のボランティアのプロジェクトを発足され、被災地の支援を担うにあたっての心構え等が記されたウイズダムのシートも準備下さいました。
私も、運搬プロジェクトが担えなかった後悔があったため、第一陣でボランティアに参加し、南三陸にある大船渡へと向かいました。
大船渡には、3.11の半年前に三陸ターミナルが建造されたばかりでした。
高台に建てられていたため津波の影響を受けることもなく、既に様々な支援物資が運び込まれて、会員さんを支える作戦本部となっていました。
そして、このターミナルを拠点として、医師による医療支援や、弁護士による法的な支援などがなされていました。
私たち青年のボランティアは、津波に呑まれた会員さんのお宅の復旧のお手伝いのために、Kさんのお宅に伺いました。
当時は、震災から1ヶ月ほど経っているにもかかわらず、いくら掃除をしてもドロは消えず、水道と電気は復旧したものの、毎日毎日大変な苦痛を伴う極限状態の中で生活されていました。
また、一度津波に浸かった壁は、ヘドロが中に入り込んでいるため取り壊さなければならず、壁を取り除く作業もさせていただきました。
今思うと、草むしりプロジェクトの時と同じように、作業になるとどうしても苦暴流になってしまい、その心で壁の撤去も進めたところ、素人による手荒い作業を見て、Kさんを不安にさせてしまう事件がありました。
一日が終わって三陸ターミナルに戻ったときに、改めて先生が作って下さってウイズダムに取り組み直しました。そして、心不在で作業に没頭していたことを後悔し、先生のことをお伝えしようと願いを立てて翌日の作業に向かいました。
すると、翌日の作業は雰囲気が変わってしまい、終始穏やかな雰囲気で、作業中も色々とお話を伺いながら進めることができました。
話しの中でKさんは「東京からわざわざボランティアで来て下さるなんて、よっぽど立派なご両親なんでしょうね」と話されました。
そこで、私は両親の不和の中で、幼い頃から折檻を受けて育ち、人間不信、世界不信の苦しみの中で絶望を抱えて生きてきたことをお話ししました。
そんな自分が、先生と出会って魂深くから癒され、そして、GLA魂共同体の絆の中で癒されてきたこと、GLAは自分にとって家族なんですとお話ししました。
裏も表もなく、深い話しができるようになったところで、Kさんは震災直後の津波が襲ってきたときの状況など色々話して下さるようになりました。
Kさんは、津波が来たときに、近くの山に逃げられたのですが、波がどんどん高くなり、家の1Fが沈んだ時に「神も仏もあるものか」と心が切れてしまい、それから毎日ドロドロの家の中で津波の恐怖に怯え、泣きながら過ごされてきたことを話してくださいました。
しかし、同時にこの土地に記憶されている、温かなお父さんとの思い出なども話して下さいました。そうして、やっぱりこの土地を守っていきたいと心を立て直され、どんどん明るくなって行かれました。
半年もすれば家も復興しますよね、懸命にそのような励ましの言葉を絞り出しながら、私も話しを聞かせていただきました。
不安や痛みを一緒に受けとめさせて頂いて、最後は涙涙で感謝の別れとなりました。
その後、残されたわずかな時間で大船渡の被災地を回り、写真を撮りました。
翌日、東京に戻ってきてボランティアの歩みを振り返ったときに、なんで自分はあのような苦しみの中に行くことになったんだろうかと思いました。
そのときに、苦しみの極限の状況にあって、神を呪って生きざるを得ない皆さんの同伴者になりたかったという深い願い、魂願が思い出されてきました。
私の魂が願っていたから、あのような出会いを頂いたんだと思いました。
東北から帰ってきた後で、あるご指導の場で、東北での出会いについて先生にお言葉をかけて頂きました。そして、今回の出会いは必然であったことを証して頂きました。
というのも、私が復興で伺ったKさんのお宅で、たまたま自分の仕事について話す機会があったのですが、なんと親戚に同じ会社の人が居るということが分かりました。
更に名前を伺うと、実は知り合いだったことが分かり、1週間前に来てくれていたということでした。
偶然訪れたお宅だったのですが、深い必然があっての出会いであったことを感じました。
また、先生はそのときの出会いで、東北の会員さんと出会って励まされたのは私たちだったよねとお話し下さっていました。
その場では、「はい」と答えていたのですが、正直言いますとあまり納得しないまま何となく返事をしていました。
その時は、私の方が励ましに行ったという思いの方が強くありました。
しかし、今回改めて、振り返ったときに確かに照らされていたのは私の方だったことが、心底感じられてきました。
試練の中にあってもたくましく生きられている姿に励まされ、そこに注がれる、先生、神さまの光を見せていただいたのも私の方でした。
その後、先生は東北の写真集と詩を「果てなき荒野を越えて」という御著書を発刊下さいました。以下のリンクはyoutubeにアップされたイメージ映像です。東北の抱える痛みと、その試練とどう向き合っていくのかが示されていると思います。一度書店で手に取ってみてはいかがでしょうか?