まったき托身 - アシジのフランシスコ 無私の魂が放つ光の実践

「二千年の祈り」に書かれている、二人目の先人は、フランシスコです。

St_Francis

フランシスコは約800年前の方で、当時、奢侈と堕落に傾いていたキリスト教会を、清貧無所得をもってひたすらイエスに倣う生き方を通して、本来のキリスト教へと立て直していかれた方です。

しかも、フランシスコはそのことを意図して変革したのではなく、従順、清貧、貞潔をひたすら生きる中で、仲間が増え自然とそのような影響を世界に与えていかれました。

その結果だけ見ても、相当境地が高い方だと思います。実際に、本の中には、豊かな環境で甘やかされて育ったフランシスコが、主に導かれて奇跡的に回心し、イエスの弟子として歩んでいかれる姿が書かれていますが、常人には踏み入れないような、魂の純真さと気高さを感じさせます。

フランシスコが弟子たちに誘った三つの道として、「従順」、「喜び」、「祈り」について、高橋先生はわかりやすく説明してくださっていますが、その一つ一つが本当に深く、祈りについては聖痕(スティグマータ)について、詳しく書かれています。聖痕とは、イエスが十字架上でうけた傷と同じ傷が体に表れる現象なのですが、フランシスコがイエスへの祈りを深める中で起こった奇跡の様子まで書かれています。

こんなすごいこと知ってしまっていいのだろうかと圧倒され、同時にフランチェスコの生き様をどう自分に引き寄せるか考えていたところ、会社で事件がありました。

私は現在、あるメーカーの技術者として、新しい開発ツールの教育などを担当しています。

これまで何年もかけて、作ってきたWebでのeラーニングのシステムを、次に続くAさんとBさんに一度渡した方がいいと上司から提案されました。

しかし、二人はかつては自分が教えてあげた人たちで、後から合流したにも関わらず、これまで散々自分のやってきた教育方法を批判し、eラーニングのシステムも否定されてきました。

しかも、我が者顔で教育システムについて語り、半ば乗っ取られたような形になっていました。

そして、自分の上司は、問題点を指摘し要求を突きつける自分より、派遣社員としてサービス精神のある二人の方がお気に入りでした。

「何で、自分を馬鹿にしてきた人たちに、苦労して作ったシステムを渡してあげないといけないのか、しかも、マネジメント層はよく理解しておらず、このシステムの有効性を実証するのはこれからなのに・・・。」

自分の中では、治まりきれない怒りがわいてきました・・・。

このような葛藤を抱えるときに、フランシスコの生き様を深めることになりました。以下先生の御文章から、心に響いた箇所を『』で抜粋させていただきます。

『あえて裸になって、すべてを捨てて、世界の最も低いところに身を置いたとき、見えてくるもの、感じられるものがあります。』
・・・・
この部分を読んでいて、自分は認められたいという思いが強く、全てを捨てて、世界の最も低いところに身を置く発想は全くありませんでした。

『同時にそれは、無力であることを自ら選ぶことであり、無力な裸の姿で世界に対するということは、あるがままの自分と向きあうということでもあります。飾りも防御するものも一切身につけず、弱き自分、いと小さき自分をそのまま受容するという謙遜の実践でもあったということです。』
・・・
これまで作ってきたシステムに対して、自分を守り証すための手段としてとらえていました。それらを失って、無力な自分になることを恐れる気持ちがありました。

『そして、フランシスコは裸の自分としていきることによって、神の被造物一切のものと横並びの「兄弟」となりました。』
・・・
世界とつながって横並びの兄弟となるという発想がありませんでした。常に自分の優位性を求めてきました。

このように、本を読み進める中で、自分の中にあったこだわりが一つ一つ砕かれていきました。

そして、物語の最後のページはこのように締めくくられています。
『フランシスコの人生に、私たちは、肉体に対する魂の勝利を見いだすことができます。しかも、その闘いは、何の武器も持たず、素手によるものでした。「従順」という形で、あまりにも無私の裸の魂を、世界に対して無防備なまでにそのまま開くことによって、勝ち得た勝利でした。』

『無私の魂が放つ光-。 それこそいかなる武器よりも強く、人々の心を射貫くものであることをフランシスコの魂は呼びかけているのではないでしょうか』

自分にまつわるものを一切捨て去って、ひたすら神の御心に托身して生きたフランシスコ。私もフランシスコのように、こだわりとらわれを一度一切捨て去って、弱き自分、無力な自分として世界とつながって生きていきたいという気持ちなりました。
何か次の仕事が自分を呼んでいると感じました。
すると、あれほど止まらなかった怒りが消えていきました。

翌日、会社で続きの会議があったのですが、自分の心は自由でした。

そして、全てを捨て去った気持ちでプランを考え、提案することになりました。すると、これまで自分に向いていたAさんたちの不満が、グループの皆さんへと向けられることになりました。

会議の中で、Aさんたちは正論をかざして孤立していきました。反対に自分と上司との関わりが急速に改善し、信頼関係が回復していきました。

また、その日の昼礼で100名ほどの社員の前で、MGへのスキル認定証の授与式を持ったのですが、そのとき初めて公の場でeラーニングのシステムをPRすることができました。また、MGからも大勢の社員の前で、教育チームへの感謝のことばをいただくことになりました。

さらに、その日のうちに、それまでローカルで運用していたシステムを、専用サーバーへと移す話までシステム部門が進めてくれることになりました。

自分のとらわれ、こだわりを捨てて、神に托身したときに、一切が光転していくことを見せていただきました。このタイミングで、フランシスコの人生の反芻ができたことは、自分の魂にとって必然があったことを感じました。更に神理実践を深めて参ります。

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