『新 祈りのみち』による妬みの業火に焼かれた魂の傷への深い癒やし

お正月に、佐賀の実家に到着したところ、TVでG.Live(GLA会員用のインターネットでの研修チャンネル)が見られなくなっていました。

11月に設定していたのですが、自分が東京に戻ってすぐに使えなくなっており、仕方なくタブレットで見ていたということでした。

原因を調べたところ、ケーブルが壊れていました。

早速ケーブルを交換し、その後づ母が一人でG.LiveとG.Archiveを見られるようになるために、何十回と練習を重ねてゆきました。

Contents

コロナの闇から守られるG.Archiveへの感謝

実家に帰った時、母はコロナが怖い怖いと言っていて、コロナが不安で外出もしていないため体力が落ち、元気がなくなっており、かなり厳しい状態でした。

しかし、G.Archiveで感染症の専門家のTさんの解説されるコロナに対する正しい知識を得ることができ、コロナに対する過度の不安が解消されてゆきました。

また、家の中でできる運動の映像も何度も見て、一緒に体操をするようになりました。インターネットに慣れるためにも、この体操は毎日行ってゆくことにしました。づ

こうして、G.Archiveを視聴することで、過度なコロナへの恐怖心を離れて、コロナを正しく恐れることへと導かれ、体力アップの体操にも取り組んで、みるみる元気になってゆきました。

先生がお作りくださった、インターネットを使った学びを通して、GLA会員がコロナの闇に飲まれることなく、守られていることに改めて感謝しました。

『GLA会員の基本ライフスタイル』による自己流の禅定への後悔

G.Archiveの中で、光の瞑想の話があったのですが、母も姉も、そもそも禅定の方法が分からないという話になりました。

そこで、『GLA会員の基本ライフスタイル』という本に、禅定の取り組み方がとても詳しく書かれているので、一緒に輪読することにしました。

コロナになって在宅勤務が8割ほどになり(現在は10割)、お昼休みは聖堂で禅定に取り組むことが日課になっており、半年以上続いてきていました。

最初は、母と姉のために読み始めたのですが、改めて読み返してみると、自分自身の禅定が自己流になっていて、全く禅定の意味がわかっていなかったことに気づきました。

禅定に取り組むことで、何か境地が上がるような特別な体験がもたらさせることを期待し、ちょっとでもそのような感覚があると、喜んでいたのですが、この本によると、自分のやっているような取り組みをしていると、いつまでたっても禅定の本質に至ることができないと明確に書かれていました。

私のような取り組みは、禅定ではなくて、雑念をおいかけているだけの状態になっているということでした。

禅定とは、一喜一憂するような心のざわめきを停止させて、内なる菩提心を育ててゆくことで、神様の御心との深い一致へと誘われてゆく取り組みであるようなことが書かれていました。

自分の3つの「ち」に染まっている心を経由せずに、あるがままの世界を受け止めることで、元々注がれていた神様の光に気づけるようになる取り組みであったことが深く受納されてゆきました。

そのほかにも、眼差しに込められた意味、また、姿勢に込められた意味なども、詳細に書かれており、それらを全部無視した取り組みになっていたことも分かりました。

こうして計らずもこの半年間の自己流の禅定を修正し、本来の禅定へと進化させてゆくことにつながってゆきました。

禅定の深まりと祈りの深まりの連動

『GLA会員の基本ライフスタイル』に書かれている禅定と共に、年末に深められた「嫉妬を感じるとき」と「比較・競争にとらわれるとき」の祈りを、その後1ヶ月ほどずっと取り組み続けることになり、2つの取り組みが連動してゆきました。

『新 祈りのみち』

深める程に、特に嫉妬心によって、どれほど関わりを壊し、また自分の心を卑屈にさせて、事態を暗転させ続けてきてしまったのか、深く深く後悔してゆきました。

星印前の、自分自身への語りかけの言葉として

そして、「自らの人生を天地いっぱいに生きる」という一大事をすっかり忘れてしまう-。

自分自身の無限の人生のことを、どこかに置き去りにしていないでしょうか。

『新 祈りのみち』 嫉妬を感じるとき 235P

と書かれているのですが、嫉妬心によって、自分の可能性を開くこともできてこなかったんだなと思いました。

そういえば「二千年の祈り」のご著書の中に、イエスの弟子たちが比較、競争にとらわれていたシーンがあったことを思い出し、読み返してみました。

さらに、過越の食事、最後の晩餐と言われる場面でも、決定的な亀裂を示したユダの同様の反駁がありました。弟子たちが多くの支持者に囲まれていい気になり、一体誰が一番偉いかということを言い争い、イエスが哀しみとともに、再び神の愛について話したその時でした。

『二千年の祈り』 23P

イエスが磔にされる直前の最後の晩餐においても、弟子たちが言い争い、イエスを哀しませていた様子が書かれていました・・・。

師の心が分からない弟子たちの愚かさは他人事とは思えず、私も幾転生かけても超えられない魂のカルマとして、比較競争、嫉妬心の思いをずっと抱き続けてきていたんじゃないかと改めて思いました。

『新 祈りのみち』による魂の癒やしへの道

この祈りの最後に

妬みの業火に焼かれた魂の傷が

その中心から癒やされますように。

『新 祈りのみち』  嫉妬を感じるとき 240P

と書かれているのですが、幾転生超えられない妬みの業火によって、魂に大きな傷を抱えているんじゃないかなと思いました。

嫉妬の炎のイメージ

『GLA会員の基本ライフスタイル』に書かれている禅定の呼吸法に倣って、神の光を吸い込んで、闇を吐き出すことを続けると、赤黒い闇の塊のようなドロドロしたエネルギーが背中の中心にあって、それが少しずつ溶けていって、光に転じていくようなイメージが湧いてくるともありました。

高橋佳子先生に『新 祈りのみち』という本を頂いて、今生初めて嫉妬の闇に真正面から対峙することへ導かれているんじゃないかと思ったのですが、この闇の浄化をどれほど願っていたんだろうかと魂の願いに思いをはせていきました。

誘いの言葉の最後に

「もう一つの眼」とあなたとの関わりを見つめ直してください。「もう一つの眼」に依存し執着する心から立ち上がり、自律して生きることを呼びかけられているのではないでしょうか。

そこに問題の核心があることに気づいたならば。

それはきっと、嫉妬の罠からあなた自身を解き放つことにつながるはずです。

『新 祈りのみち』 嫉妬を感じるとき 238P

と書かれていました。

改めてそのような視点で振り返った時に、結局自分は周りの人の眼差しを通して、自分自身を評価し、一喜一憂してきたんだなと嫉妬心の構造が見えてきました。

禅定を通して神の愛による煩悩からの救済

嫉妬の祈りを深めつつ、禅定の取り組みも深めていったのですが、嫉妬心の浄化とともに、圧倒的な神様の光と愛情が感じられてきました。

すべての存在が愛され、導かれていた、一切の存在が極みを超えてもともと大切にされている事実。『祈りのみち』に書かれているように、神様の愛が、ダイレクトに魂に届くようになってゆくように感じました。

改めて愛の大切さを感じて、『二千年の祈り』の「愛の使命―テレーズ・マルタン」の反芻にも取り組んでみました。

テレーズの歩みの中で「修道生活―小さき道の発見」の章が、特に心に響いたのですが、この章の中で、テレーズが姉に宛てた手紙が紹介されています。

「お年様の小さい娘が、誰の目にも見えないで、イエス様にだけ見ていただける小さい砂粒であるように、お祈りくださいませ。そして、この砂粒がますます自分を小さくし、ついに無に帰してしまいますように」

『二千年の祈り』 178P

このように、テレーズは自分自身をどこまでも小さくしていくのですが、その結果、神様、イエス様の無限の愛を感じ、愛の殉教者としての自己奉献へと向かってゆきます。

テレーズの自分を小さくして、神様、イエス様の愛を深めてゆく歩みと、禅定を通して、雑念を流して神様の御心とつながってゆくことは繋がる部分があるように感じました。

テレーズの反芻をした後で、禅定を深めてゆくと、これまで感じられなかった巨大な愛の塊としての神様の存在が迫ってきました。

そうして、愛を深める祈りも同時に深めてゆきました。

愛を深める祈りの一節に、

怒り、謗り、妬み、恨み、ひがみむ心

傲り、欺き、疑い、愚痴り、怠る心を

本当に癒すのは

慈しみと愛の力をおいてほかにはありません。

『新 祈りのみち』 愛を深める祈り 628P

極みを超えた無限の愛によって、すべての存在が大切にされていることが感じられてくると、嫉妬心の罠からも自由になってゆくように感じました。

ある意味で神様の愛が感じられないから、他の人や、社会から愛されることを求めているんだと思ったのですが、神様の愛が感じられてくると、そのような飢渇感が癒やされてゆくように感じました。本当に愛によって、煩悩の闇は癒やされてゆくんだなと思いました。

『GLA会員の基本ライフスタイル』の大切さの深まり

こうして、年末年始の歩みを通して、禅定の深まり、祈りの深まり、そして自らの煩悩の浄化への道が開かれてゆきました。

この期間、ここまで明確に書かれているのに、なんで気づかなかったんだろうという発見が度々ありました。

例えば愛を深める祈りの冒頭に次のようなことが書かれています。

自然のすがたを眼を開いて見てください。

あらゆる存在は

どれ一つとして

この存在理由をこわされず

大切にされています。

きわみまで大切にされています。

あなたもまたその中に生かされています。

『新 祈りのみち』 愛を深める祈り 625P

何百回・・・と読んできた祈りですが、表面的にしか受け止めておらず、すべての存在をきわみまで大切にされる神様の愛を受け止めてこなかったことに気づきました。

灯台下暗しという言葉がありますが、「なんでこんなに明確に書かれているのに、気づけなかったんだろう?」と思うような発見が他にもいくつかあり、何千回・・・と唱和してきた「自律の言葉」でも同様の発見がありました。

「誉れを求めることなく ひたむきに愛を尽くす」と書かれているのに、誉れを求め愛を尽くしてこなかったことに気づきました。

『GLA会員の基本ライフスタイル』の冒頭には、基本は極意まで変わることがなく、神理の道、菩薩への道の第一歩であるとともに、極意に至るまで果てしなく続けられるべき歩みであると書かれていました。そして、この本が新しく学び始めた人だけでなく、むしろ、既に長年にわたって学んでこられた方々にとって、大きな手引になるとも書かれており、改めてこの薄いテキストブックには、極意に通じる大切な取り組みが書かれていると実感しました。

これまでもずっと、禅定は毎回のセミナーでもあり、やったほうがいいとは思いつつ、なかなか定着してこなかった事実があったのですが、コロナ禍をきっかけとして聖堂に通うようになり、自然と禅定が定着し、自己流の神理実践から、「GLA会員の基本ライフスタイル」に倣った神理実践に修正することで、深まりへの道が開かれていったのかなと思いました。

コロナが始まった時に、先生から「弱点の克服」「前提の点検」「挑戦の始動」の取り組みを誘って頂き、様々模索してきましたが、今回の取り組みも先生のお導きがあって開かれた道であったことを思いました。

その恩恵を深めつつ、「コロナがあったからこそ神理実践が深められた」、「こうだったからこそこうなれた」という未来へ向かってゆきたいと思いました。

2 thoughts on “『新 祈りのみち』による妬みの業火に焼かれた魂の傷への深い癒やし”

  1. 昔から私は嫉妬心と依存心が皆無だと公言してきました。私が頑張る時の動機は不安と恐怖から逃れるため、安心安全を得るためでした。競争とか挑戦は大の苦手でした。神様のような両親と必要以上に面倒を見てくれる周りの人達に囲まれて育ちました。と言って自分の方を見てくれないと寂しいとか悲しいとかもありませんでした。世間に対しては薄弱の愛情しかないので、自分が安心安全なら満足で怠惰のまま一生を過ごせるような個性です。

    1. Junjinoさん、生まれ育ちの環境が大きく違うんですね。環境が違えば、引き出される心も大きく変わることを改めて実感しました。

      魂が元々抱いていた因としての闇が、生まれた環境としての縁の影響を受けて闇の心が引き出され、闇の現実としての果報を生んでゆく、因縁果報の神理が納得できてきた所でした。

Leave a Reply

Your email address will not be published.

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.