人生祈念堂 モザイクプロジェクト 草むしり体験記&ビッグクロスとの再結


今回は特別プロジェクトのモザイクプロジェクトに関するレポートです。

今年は、八ヶ岳 いのちの里に人生祈念堂が建設されます。

既に開所式などは終わっているのですが、先生の御心によって、敷地の一角に「地上の星」という巨大なモザイクが設置されることになりました。

そのモザイク作成に、これも先生の御心によって、青年も参加できることになりました。

八ヶ岳の人生祈念堂は、これから何千年もの間、人類を導く聖地になると思うのですが、私もその聖地を具現する貴重なプロジェクトへの参加を希望しました。

プロジェクトは、週末に開催されるワークショップ形式のプロジェクトと、それ以外のプロジェクトがありました。

当初、ワークショップに参加する予定だったのですが、週末に東北に行く計画ができたため、急遽ワークショップの前のプロジェクトに参加することになりました。

そこで、八王子のT君と二人で、八ヶ岳 いのちの里に向かいました。

いのちの里に到着すると、職員のEさんが草むしりをされていました。段取りが分かっていなかったため、なぜか一緒に草むしりをお手伝いすることになりました。
今にして思えば、それも偶然ではなく、必然であったと思います。

Kusamushiri

Kusatori

人生祈念堂の前の原っぱは、野球場になるくらいの巨大な土地があるのですが、そこに生えてきた雑草を一つ一つやっつけていきました。

数時間作業すると、根っこについたドロを払うために、体中ドロドロになり、靴はずぶ濡れになりました。

そして、私が作業した後は、雑草を取ろうとしてドロも一緒に引き抜いたために、地面に穴がボコボコ空いてしまいました。

草むしりをしながら、私の心は怒りに燃えていました。

雑草は、抜いても抜いても巨大な原っぱからすると微々たるものでしかないため、雑草という巨大で理不尽な敵が広がっているとしか思えませんでした。

思い返せば、昔から、草むしりや庭掃除をするときは、理不尽な雑草や木への怒りの感情にのまれながら作業していました。

しかし、ふと横で作業しているT君やEさんを見ると、それぞれ自分のペースで着実に黙々と作業をされていました。

T君は、元々造園の仕事もしていた経験もあり、作業した後も綺麗に整っており、むしろ、楽しみながら作業しているようにさえ見えました。

この差は何なんだろう?と疑問が湧いてきました。

職員のEさんに、雑草を抜きながら怒りがわき上がってきたことを率直にお伝えしました。

するとEさんは次のようにお話し下さいました。

「人間は、この場を綺麗にしたいと思うから、雑草が邪魔だと思っているかもしれないけど、それは人間の勝手な価値観を押しつけているだけ」

「雑草には雑草の理由がある」

「怒りが出てくると言うことは、カルマが現れてきているということ。そのことに気づける機会を頂いていることはとてもありがたいこと。人生の条件を選んで、そのようなカルマが現れる環境を選んで生まれてきた。そのカルマを修正するチャンス」

「怒りに飲まれるのではなく、一心に心を尽くしたときに自然と一体化し、心が浄化されていく。」

「かつて先生の御著書に、炎天下で作務の作業をやっているご老人に、そのような仕事は若いお坊さんにやらせればいいと言った話があったけど、作務の作業は他の人に成り代われない大切な修行であり、極意に通じるところがある」

「怒りに飲まれていると、世界からの助力は働かないよ」

と、様々なアドバイスを頂きました。

私は、誰もが自分と同じように、怒りながら庭掃除をしているんじゃないかと思い込んでいたのですが、それは私の特殊な受け止め方だと笑われてしまいました。

思い返すと、私は仕事においても同じような受けとめ方をしており、未だ教育を受けずに、自己流で仕事をしている人々に対して、理不尽な存在と受けとめていました。

職場での何百人もの人々への受け止め方と、巨大な土地に繁殖する雑草への受け止め方は、ほぼ一致していました。

これが自分の境地の限界であり、超えることが呼びかけられていると感じました。

その後、モザイクプロジェクトに合流していきました。

翌朝、五時に起きて、モザイクの場所に向かいました。

先生は、地上の星のオブジェを作る場所を探されていて、パワースポットを見つけられて、そこにオブジェを作ることにしたと話されていました。

そのため、モザイクの場所は天上界とダイレクトにつながるような場ではないかと感じつつ、祈りを読んでみました。

ふと、普段あまり読むことのない「神への祈り」を読みました。

「祈りの道」の中には次のように書かれています

「宇宙をつくる物質。その物質界に人間は動植鉱物という区分をつくりました。鉱物、植物、動物は私たち人間にとっての同胞であり、根です。点的生命である鉱物、直線的生命である植物、平面的生命である動物。そして私たち人間は立体的生命と考えることができるでしょう。
そして神は超立体的な生命というべきものです。立体的生命である人間にとって、矛盾にしかならないことが神においてはまったく矛盾もなく共存しています。法則としてあること、そういう、もの語らぬ存在としてあり、同時に私たちに常に呼びかけ、はたらきかける存在としてあります。
裏と表、動と不動、偶然と必然、光と闇、内部と外部・・・・・・。これら対立、断絶するものが、同時に神のすがたとなって現れます。何の矛盾もなく、それらを包み込んであるのが、超立体的生命である神。・・・」

この祈りを深めていて、改めて自分の中に、神様という存在が欠如していたことを発見しました。

私は、世界に対してすぐに、被害者の意識で理不尽さに満ちた世界と受けとめる傾向が強くあるのですが、そのとき神さまの存在はこの世界から消してしまっていました。


芝生と雑草の対立、仕事での、教育の受講者と未受講者という対立・・・。全て理不尽な世界と受けとめていました。

しかし、超立体的生命である神は、それらの対立軸を超えて、常に呼びかけはたらきかけて下さる存在としてあると受けとめたときに、心に世界不信という大きな穴が空いていたことが発見されました。


そして、私たちに常に呼びかけ、働きかけて下さる、超立体的生命としての神との絆の再結が起こっていくように感じました。

また禅定を深めながら、ふと次のような思いが湧いてきました。

神さまとの御心と一つなられている先生の光のネットワークの中にあって、導いて下さる光の天使と相談しながら進めていけば良いんじゃないかな・・・。

改めて、先生、神さまとの絆の再結へと導かれていきました。

また、鍛錬合宿で先生より「理不尽な世界に対して跳ね返すような生き方では、国難に立ち向かうことは出来ない」とアドバイスを頂いていたのですが、その公案に対しする更に深い答えを与えて頂いているように感じました。

先生から頂く御言葉は、三世を見通される如来の御言葉として、私の魂願とカルマを貫いており、どこまでも深まりゆくことを改めて感じています。

こうして神様との絆の再結、同時に永遠の生命との絆の再結を頂いていたのですが、それはとりもなおさず、モザイクが象徴するビッグクロスとの絆の再結の歩みとなっていました。

そうして、二日間の作業研鑽を終えて訪れた思い。それは、あまりにもたくさんの功徳をいただいて、あり難すぎて言葉に出来ないといった感覚でした。

どのような出会いを頂いたのかはまた次回とさせて頂きます。

Leave a Reply

Your email address will not be published.

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.