愛の使命-テレーズ・マルタン 「小さき道」の深まりと転生かけた先生との出会い

前回はテレーズの宿命の中での葛藤を、私自身が高橋先生と出会い、救われた歩みと照らし合わせて分かち合わせて頂きました。

テレーズの物語の後半は、修道生活の中で、霊的な歩みが深められていきます。

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テレーズは、幼い頃の苦難の歩みを超えて、15歳の時のイエスとの回心の体験を経て、神との絆を顕わにしていきました。

その心境について、以下のように書かれています。

「何ものにも動じない意思の力、自我を砕く内省の力、単純で無邪気な輝き-。そのすべてが辛苦と重荷ゆえに、一層の心の力として結晶したのです。」

鍛えられた心は、最も厳しい修道会と言われているカルメル会で、他の修道女にはまねできないほど、忠実に微細にわたる規則を守ることにつながります。

修道生活の朝の起床は早く、沈黙の規則は徹底され、祈りと黙想のリズムは厳格。2度の少量の食事と十分な労働、夜の就寝は遅く短い就寝の後にまた朝が訪れる。

その厳しい環境での鍛錬の歩みを深める中で、テレーズはイエスとの内的な対話を深めていきます。

テレーズは、初め自らを小さくすることを求め、自分を小さくしていって、無に近づけていきます。

自分を抜が抜けきらないという壁にもぶつかるのですが、イエス様を心に迎え入れることへと深まっていきます。

そして、この戦いは、自分が闘うのではなくイエス様御自身が勝負して下さっている、と思い至ります。

この部分は深く共感するところがあります。

人間の内なる光と闇の戦いにおいて、一切を引き受けて闘っておられるのは師であり、弟子である自分たちは、師に一切をお任せすること。

GLAでは会員は「祈りの道」という本に親しんでいるのですが、その中には心に祈るという章があり、様々な心の状態が書かれています。

「怒りが湧き上がるとき」「不安と恐怖を抱くとき」「甘えと依存に傾くとき」・・・。

こういった心から本当に自由になることは、自分の力だけでは非常に難しい部分があるのですが、祈りの道でずっと深めていくと、何でそのような感情に飲み込まれているのか、その深い原因が分かってきます。

更に、祈りの言葉を深める中で、その原因が浄化されて、自由な心になっていくのですが、私は祈りを深めているときに、先生、神さまの御心に托身するような気持ちになることがあります。

そのとき、自分の中の闇の心と先生が勝負して下さっているように感じます。

昔、ある試練を乗り越えられたGLAの先輩が、私ではなくて、全て先生が導いて下さっていたと涙ながらに話されていたことがあるのですが、なぜかそのシーンは非常に印象深く刻まれています。

先生は、人間は心の更に深くの魂の次元で繋がっているとお話し下さっていますが、祈りを深めていったときに、先生、神さまの御心の次元につながっていくんだと思います。

そのとき、闘って下さっているのは、先生であり、神さまであり、イエス様であり、諸如来、諸菩薩、諸天善神となっていくんだと思います。

「祈りのみち」のはじめに には、以下のように書かれており、表現は違いますが、そのように解釈することもできると思います。

『「祈り」を通じ、日常意識を越え出ることによって、また神仏の次元に触れることによって、私たちは、自分のものの感じ方や考え方を大きく変貌させることになります。深い心の傷とともにもたらされていた孤独感から解放されて痛みが癒され、決して許せなかった頑なな思いがゆっくりと溶かされ、どうにもならない閉塞感を脱してそれまで気づけなかった答えが見えてくる・・・・・・。
 「祈り」によって、私たちは、自らの心境、境地から上昇し、それまでは触れ得なかった智慧と光に浴し、新たな道を自ら開くという思いがけない果報(恩恵)を手にするのです。』

テレーズの話に戻ります。

テレーズはあるときから,自力の努力、意志的な歩みからまったくの「托身」へと向かっています。

自力は消え失せ、天からの賜り物を心からの感謝を持って受け取る、そうした態度に一変していきます。

神は、小さき者、弱き者を御自身の愛で満たすために降りてこられる。

人間の無力さ、未熟さこそ神がその御業を完成するための介在であると考えるようになります・・・。

この「小さき道」という境地を深めさせてもらえたことは、自分にとってはとても大きかったように思います。

というのも、より小さくなって自分を無に近づけることは、今の時代の価値観からするとある意味、真逆だからです。

どれだけ自分の力を拡大して、自分の主張を通すかということが現代の主流の価値観だと思います。

テレーズは、そのような価値観とは真逆のより小さくなることによって、深まりへの道を歩むことの大切さを教えて下さいました。

小さき道を深める中で、自分の中にも飽くなき拡大を求める心があることが発見されていきました。

仕事においては、自分の力を拡大して、上司や周りの人に自分の力を認めさせることにエネルギーを注いでいました。

GLAにおいても、正直言いますと組織の中で立場を得たい、もっと認められたいと自然に思っていました。

「小さき道」を深めることで、そのような思いがあったことに改めて気づき、まずは私も小さくなることに挑戦してみました。

その結果どうなったのかといいますと、仕事においては、より地道で目立たないことにエネルギーを注いでいったのですが、自分の意思とは逆に、3階層ほど上の上司から、私がやってきた仕事をもっと広範囲に展開していくことを宣言されてしまいました。

また、この一年ほど一緒に働く派遣会社の皆さんと、主導権争いが続いていたのですが、自己主張をやめて、小さくなろうとしたところ、関わりが急速に改善されて、信頼関係が深まり、楽しく仕事ができるようになってきました。

GLAにおいては、先生から直接ご指導を頂く機会を頂きました。

ここで、先生からご指導を頂くことについて、私なりに感じていることを書かせていただきます。

仏教のお経の中に、「百千万劫 難遭遇」とうい部分があります。これは、悟られた方(如来)から指導を頂くことは、何十億年、何百億年という想像できないほど長い時間の中で一回頂けるかどうかの希有なる機会であることを伝えるものです。

私は転生が分かるわけではありませんが、過去世に、どんなに学んでも真実が分からないことを嘆いているお坊さんの姿がなぜか心にあります。真実を求めながら、自分の心から自由になれないまま亡くなって行かれたんだと思います。

なので、真実の師と出会うことは、きっと転生かけて求めてきたことなんだと思います。

先生と出会いを頂いていることは、転生かけて求めてきた師との出会いを頂いている確信があります。

かつて入会した頃は、先生にお会いする機会は、それこそ一年に一度あるかないかという限られたものだったので、切実に一回生起の先生のご指導をお受けしていましたし、今でも先生からご指導を頂くことは本当に大切にしたいと思います。

また、実際に先生にお声をかけて頂くと、三世(過去世、現世、来世)を見通して、自分の魂を貫くようなご指導を頂いていると感じます。その真意(神意)は、この人生を終えた後も含めて、長い時間をかけて理解することになるんだと思います。

また、先生は誰か一人に関わられるときでも、そのことを通して同時に複数の問題を解決して行かれるような具現をされるので、絶対に安易に自分と結びつけてはいけないと思います。

ただ、イエス様だけには見て頂けますようにと、テレーズが小さき道を深めていき、イエスとの対話を深め、霊的な歩みを深めていったことは、信仰の道を深めるという点において、本当に大切な極意ではないかと感じましたし、先生からご指導を頂いたことも無関係ではないように感じました。

自分を分かって欲しいと拡大を望めば孤立し、密やかに続く小さき道を歩めば、宗教的な深まりへの道が開かれ、神仏との絆が確かになって行くことを、体験と共に見せて頂いているように思います。

「小さき道」を見いだしたテレーズは「愛の殉教」というテーマに向かいます。

テレーズは「奉献の祈り」を書き、姉のセリーヌと一緒に自己奉献を行います。

テレーズの願いは、カルメル会の一修道女として使命を生きることに止まらず、彼女自身が「無限の望み」と読んだように、世界そのものを包み込むものとなっていきます。

テレーズの自叙伝が、その後世界中で読まれることになっていったのは、ここまで深められた願いゆえに、必然として本の出版という形で全世界に広がっていったんだと思います。

「天職、それは愛」がテレーズの最終章なのですが、今はまだ時期ではないと感じました。

私自身の魂の余白として、今後大切に深めていきたいと願います。

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  1. まとめtyaiました【愛の使命-テレーズ・マルタン 「小さき道」】

    前回はテレーズの宿命の中での葛藤を、私自身が高橋先生と出会い、救われた歩みと照らし合わせて分かち合わせて頂きました。テレーズの物語の後半は、修道生活の中で、霊的な歩みが…

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