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特別御供養当日までの準備
GLA会員の基本ライフスタイルとして、『新・祈りのみち』には毎日取り組んでいるのですが、御供養当日の一ヶ月くらい前からは、「供養の祈り(供養行の歩みとして)」に取り組みました。
「供養の祈り」には、供養行を三つの期間に分けて取り組むように誘って下さっています。
以下に、その一部を抜粋させて頂きます。
実際の供養行は三つの期間に分けて取り組んでください。亡くなられた魂のことを様々に思い出し、なつかしむ、心の同調回路を開く第一の期間
『新 祈りのみち』「供養の祈り(供養行の歩みとして)」より抜粋
書かれている通り、三つのステップを一つずつ取り組んできたのですが、これまで既に亡くなった方に対して思いを馳せることは難しく、本当に相手に通じているのかな?と思いつつ、形式的になってしまうこともありました。
しかし、今回の取り組みはこれまでと違っていました。
御供養の深まりによる光の世界への連結
亡くなられた先祖のことを想い、祈っていると、自然と光明に満たされた世界につながっていくことが何度もありました。
もう、10回ほど特別御供養に取り組んできているのですが、亡くなられた親族の多くが救われて、光の世界に帰って行かれたんだと思います。
というのも、これまで御供養に取り組んできて、先日GLA会員として亡くなったおばあちゃんと、幼くしてなくなった従姉妹以外は、殆どの方が暗い世界にいらっしゃるように感じていました。(特別御供養の場の中で、今は亡き魂の様子が心に映るような体験を頂いてきました)
具体的には、亡くなった時の病気をずっと抱えて、苦しみ続けていた祖父とかもいたのですが、御自身が亡くなったことさえハッキリ分からないような状態で、多くの親族が、意識もハッキリしなかったり、自分の苦しみで一杯一杯の状態になられていたんだと思います。
そのような状態であったため、こちらの思いも通じにくかったんじゃないかと思います。
しかし、特にGLA会員として亡くなったおばあちゃんは、光の世界に帰られてからは、生きていた頃よりも、むしろ深い絆を感じられるようになり、いつも見守って下さると感じられるようになりました。
父の神理カードをもらってきて、家に帰ると父方の実家の匂いがして「あ、お婆ちゃん来てたんだ」と感じたこともありました。
こちらの思いも、よりハッキリと通じやすくなったと感じています。
御供養の取り組みにおける「魂主義という生き方」の深まり
御供養の前日に、飛行機で実家に帰ったのですが、移動時間にじっくりと「魂主義という生き方」の御著書の反芻に取り組むことにしました。
丁度、因縁側人類と果報側人類の部分を読んでいて、最近、仕事においても果報側人類になっていたなあと後悔が深まっていきました。
同時に、御供養の取り組みについても、この神理に照らし合わせて振り返ると、果報側人類になっていたことが見えてきました。
高橋先生は、御著書の194ページに『「果報側」から「因縁側へ」ー「3つの幸せ」の成長段階』とうい章に、次のようにお書き下さっています。
「3つの幸せ」とは、①もらう幸せ、②できる幸せ、③あげる幸せ。
『魂主義という生き方』 194Pより抜粋
最初は誰もが「もらう幸せ」から出発し、それから「できる幸せ」を追求するようになる。しかし、それにとどまらず、他の人や場に尽くし、支えることを歓びとする「あげる幸せ」を求めるようになるのです。
「もらう幸せ」は「果報側」の段階です。「できる幸せ」を超えて「あげる幸せ」を求める段階こそ、「因縁側」に立つということです。
この部分を読んでいて、ふと自分自身の特別御供養への取り組みも、「もらう幸せ」だったんじゃないかなと感じられてきました。
先祖を救いたいという願いも、もちろんあったのですが、同時に、先生が特別御供養の場に起こされる奇跡を体験したいという気持ちもあったことが見えてきました。
御供養における因縁側と果報側の意識化
そのような想いを意識化しつつ、更にチェックシートの「快」のゾーンを見ていきました。
・成功すれば自慢をしたくなる
・私がやったからうまくいった(やっぱりあの人とは違うでしょう)
・なぜか分からないがうまくいった
・与えられた役割は自分の証
ことごとく果報側の意識が当たっていました。
それに対応する因縁側の意識を見てみると。
・成功すれば次に備える
・もっとできたことはなかっただろうか
・自分の責任の範囲を広げて、のりしろにはみ出し、私の方から出かけてゆきます
・与えられた役割ははたらきの要請
とあり、ことごとく因縁側の意識になっていなかったことが、痛切に見えてきました。
思い返すと、特別御供養の場は、先生がご準備下さった圧倒的な光の奔流の中で執り行われるため、その光の中で奇蹟のような体験を頂くだけで、満足してしまっていたんだと思います。
今回の御供養では、これまでの御供養への後悔を深め、因縁側人類として生きたいという願いを抱いて、臨むことになりました。