就職の選択 神理伝承のフロントを求めての旅


前回、プロジェクトに集中したいという思いがあって、比較的に負荷が高くない大学の研究室を選んだことを書きました。
その選択が、現在のミッションワークへとつながってきているのですが、今思えば、神理を学んで煩悩を浄化し、魂の願いにアクセスすることを優先してきていたんだと思います。

遠回りしているように感じたこともありましたが、ミッションワークに辿り着く最短距離へと導かれてきていたんだと思います。

その後、就職をすることになっていくのですが、その判断も、今思えば魂の願いに導かれての歩みであったと感じます。

Contents

就職の選択 人生の岐路における判断

大学の成績はそこそこだったので、周りの友達と同じように、大学院まで行く予定でした。

しかし、突然実家から連絡が来ました。それは、実家の靴屋の経営状況が良くなく、大学院に行くお金を出すことが出来ないので、就職して欲しいという要望でした・・・。

それを聞いたとき、自分にはどうすることもできない運命の力によって、自分の人生が壊されていくような不安を感じました。

しかし、次の瞬間あるアイデアが湧いてきました。

それは、「就職して中京のニュープロジェクトに行ったらいいんじゃないか」というアイデアでした。

ニュープロジェクトとは、現在のグローバルジェネシスプロジェクトの基となった神理伝承のフロントです。

そこから一気に気持ちが開かれていきました。お金がないことで、前途が閉ざされていく不安よりも、中京のニュープロジェクトに行きたいという願いの方が、強く強くなっていきました。

ニュープロジェクトへの憧れ

当時は、94年の善友の集いで立ち上がった私たちに対して、先生がニュープロジェクトを中京本部からスタートして下さっていました。そのため、毎月のように先生が中京本部に行かれて、新しい神理を降ろされ、学びの体制を整えられていました。

GLA誌には、先生が中京本部で様々なご指導を下さったり、会員さんと関わられている写真などが掲載されていました。

それまで、九州本部では、先生が来て下さるのは数年に一回の頻度であり、その一回の出会いが本当に稀有なる出会いであると感じていました。

そのため先生との講演会での出会いのために、集中して行に取り組んだりしていました。
具体的には、自律の言葉の朗唱、GLA誌の反芻、祈りのみちへの取り組みなどを日々の行とし、更に先生の御著書の「人間のまなざし」や「人生のアルファとオメガ」を何度も読み返したりしていました。

如来には、百千万劫会い難しとお経にも書かれていますが、一回の先生との出会いがどれほど重要であるのかを刻印し続けていました。

そのため、中京本部には、何度も先生が赴かれているという事実に対して、強い憧れを抱きました。憧れてはいても、大学院に行くのが当たり前になっていたため、自分が行けるとは考えていませんでした。

しかし、大学院に行かなければ、就職先の一つとして名古屋に行ける可能性が大きくなってきました。

中京本部の仲間との出会いから就職の選択

1995年から始まった青年塾の鍛錬の中で、中京本部の青年の友達も増えていきました。

95年の東京本部のかけ橋セミナーが終わった後で、次に中ブロック(中京、近畿)のかけ橋セミナーにも参加することになったのですが、九州に往復する交通費を何とかかけなくても済む方法を考えていました。

そこで、中京の友人から、中京に来たらいいんじゃないかと誘ってもらいました。

行くあてもないまま、とりあえず中京本部に行き、その場で皆さんにお世話になることになりました。

そして、ニュープロジェクトで中京本部の皆さんが、どのような学びを受けられているのかも聞かせてもらい、更に中京本部に行きたいという願いが強まっていきました。

また、プロジェクトに通える会社について、相談に乗ってもらったりしました。

例え給料が良くても、あまり仕事が忙しすぎて、プロジェクトに行けないのも困るので、候補を絞ってある自動車会社を選択しました。

その結果、ストレートで志望した会社に採用されることになりました。

大学の友人に就職することにしたことを話すと、奨学金をもらってでも大学院に行った方がいいんじゃないかと心配されたりもしましたが、自分の中ではニュープロジェクトのフロントに行きたいという願いの方が遙かに強くなっていました。

そうして、念願叶って、三河に開発部隊がある会社に就職し、新しい生活がスタートしました。

Mikawa

ニュープロジェクトのフロントでの神理の学びの歓び

私が就職した1996年に、中京では第三次ニュープロジェクトがスタートしました。

最初の発足会で、第二次のニュープロジェクトで学ばれていた、煩悩地図の分かち合いを受けたときの衝撃は、今でも忘れられません。

そうして、毎回の先生の御講義が驚きの連続であり、新しい神理を一つ一つ体得する鍛錬の日々が始まっていきました。

青年塾のフロントとしての中京本部

当時、ニュープロジェクトも中京本部はフロントでしたが、青年塾においても中京本部はフロントだったと思います。

77年のMGBスクールが全盛だった頃に、中京では青年達によって子供達への教育が熱心に行われていました。

その当時に活躍されていた青年の中から、3人が青年担当となり、一つの中心を作って95年の青年塾は発展していったのですが、当時の青年によって育てられた子供達の多くが青年として活躍していました。

そのような歴史が有り、信頼の絆がある中京青年塾の中に、私はいきなり入っていくことになりました。

当時は、志士研究や、先人研究なども活発に行われており、中京の青年の発表内容はかなり水準は高かったと思います。プロジェクトに関する智慧は、この中京本部で切磋琢磨を頂く中で鍛えて頂きました。

中京の皆さんの絆の共同体の中での癒し

また、中京本部に来たばかりの頃に、ニュープロジェクトのご指導の場で、私の96年の青年塾セミナーでの感想シートを先生に読んで頂いたことがありました。

九州からニュープロジェクトのフロントで学びたいという願いがあって、来たことなども紹介して頂きました。

その後、中京本部の家族のような絆のネットワークに自然と入っていくことが出来ました。

当時の自分の心境を振り返ると、自己不信、他者不信の思いが非常に強くありました。しかし、中京の皆さんの絆の中で、心の荒みが癒されていき、ある決定的な転換へと繋がっていきました。

福岡先生講演会参加 (一回のプロジェクトは一転生 人生の基盤の転換)

そして、同伴者、対話者として生きる願いを引き出して頂きました。

そのような出会いになっていった起点に、先生から中京の皆さんに紹介して頂いたことが有り、そのような深い出会いにつながっていったんだと思います。

神理伝承のフロントを求めての旅

その後、青年塾の中心は東京へと移り、ニュープロジェクトのフロントも、全国一斉開催へと変わり、東京へと移って行きました。

私も、内なる促しに導かれるように、東京へと移ることになりました。

今思えば、もし中京での体験がなかったら、東京でのプロジェクトは難しかったんじゃないかと思います。本当に、見守られ、導かれ、育まれての歩みを頂いていたんだと思います。

あるときに先生から、「この人は、フロントはどこかずっと求めてきた人です」といった御言葉をいただいたことがありました。

本当にその通りで、神理伝承のフロントをずっと求めての歩みでした。

その歩みが、どこへつながっているのか未だ私には分かりませんが、魂の内には強い願いと必然はあるようです。その約束の場所に向かって、更なる旅を続けていきたいと願います。

2 thoughts on “就職の選択 神理伝承のフロントを求めての旅”

  1. まだ入会して3年ほどで 皆さんが高橋先生の事を崇めてられる事がよくわかりません。

    ここに書いてられる様に 自らを育てて皆様に貢献できる事が可能でしょうか?

    1. 私もまだまだ道の途上ですが、山川さんがGLA会員として神理実践を深める中で、先生との絆の深まりは必ずもたらされていくと思います。

      また既に、山川さん御自身が、自らを育て皆様に貢献することを願われていること自体が、神理を学ぶことを通して、そのようなお気持ちに変わってこられているんじゃないのかな?と感じました。合掌。

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